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第2話 身辺調査の理由

Auteur: 春野ケイ
last update Date de publication: 2026-10-26 16:26:51

「結婚? 姉さんが?」

 その日の夕方。白石家の古い台所で、湊は箸を持ったまま固まった。

「相手は神条陸さん。神条グループの社長よ」

「神条って……あの神条? なんでいきなり」

 契約のことは、誰にも話してはならない。それが条件の一つだった。

「前から、お話をいただいていたの。借金のことも、父さんの治療費も、全部助けてくださるって」

「それって、姉さんが身売りするってことじゃ——」

「違う」

 葵は、湊の目をまっすぐに見た。

「私が自分で決めたの。だから湊は、進路希望調査を書き直しなさい。医学部、諦めないで」

 湊は何か言いかけて、唇を嚙んだ。

 二十四年間、葵は弟に嘘をついたことがなかった。これが最初の嘘になる。

 午後八時。白石家の門の前に、黒塗りの車が静かに停まった。

 運転席から降りてきたのは、陸ではなかった。

「社長秘書の桐生です。奥様をお迎えに上がりました」

 三十代半ばほどの、穏やかな顔立ちの男性だった。彼は葵の小さなスーツケースを受け取ると、後部座席の扉を開けた。

 車が走り出してしばらくして、桐生がバックミラー越しに口を開いた。

「いくつか、社長からの伝言がございます」

「はい」

「まず、社外の方とお会いになる際は、必ず私か三浦にご予定をお知らせください。それから、夜間の外出はお控えいただきたいと」

「……ずいぶん、細かいんですね」

「奥様のお立場を考えてのことです。神条の名は、良くも悪くも目立ちますから」

 桐生は信号で車を止めると、助手席に置いてあった小さな箱を差し出した。

 濃紺のベルベットの箱。開けると、細いプラチナの指輪が入っていた。飾りは少なく、内側に小さな石が一つだけ埋め込まれている。

「社長からです。明日から、必ずお着けくださいとのことでした」

「直接、渡してはくださらないんですね」

 思わずこぼれた言葉に、桐生は少しだけ困ったように笑った。

「社長は、そういうことが不得手な方ですので」

 葵は指輪を左手の薬指に通してみた。

 測った覚えもないのに、それは驚くほどぴったりだった。

*

 神条邸は、都心の高台にあった。

 高い塀に囲まれた敷地の奥に、白い石造りの洋館が建っている。白石家の屋敷も古くて広いと言われてきたが、ここは規模がまるで違った。

「お待ちしておりました、奥様」

 玄関で頭を下げたのは、六十代ほどの女性だった。

「家政婦長の三浦と申します。何なりとお申しつけくださいませ」

「奥様……」

 その呼び方に、葵は思わず言葉を詰まらせた。数時間前まで、自分はただの白石葵だったのに。

「旦那様はまだお仕事中です。お部屋へご案内いたしますね」

 長い廊下を進み、二階の東側にある部屋の前で、三浦が足を止めた。

「こちらが奥様のお部屋です。旦那様のお部屋は、廊下を挟んだ向かいになります」

 寝室は別。

 当然のことなのに、葵は小さく息を吐いた。安堵なのか、それとも別の何かなのか、自分でもよくわからなかった。

 扉を開けた瞬間、葵は立ち尽くした。

 広い部屋だった。けれど、驚いたのはそこではない。

 窓辺の花瓶に、白い桔梗が活けてある。

 ナイトテーブルには、ほうじ茶の缶。本棚には、葵が好きな作家の小説が何冊も並んでいた。

「これは……」

「旦那様のご指示で、ご用意いたしました」

 桔梗が好きだと、誰かに話したことがあっただろうか。ほうじ茶も、この作家のことも、家族くらいしか知らないはずだ。

 三浦が下がったあと、葵は一冊の本を手に取った。

 まるで、ずっと前から自分のことを知っている人が選んだような部屋だった。

*

 時計の針が十一時を回った頃、廊下に足音が響いた。

 葵は迷った末に、部屋の扉を開けた。

 ちょうど階段を上がってきた陸が、足を止める。ネクタイを緩めた姿は、昼間よりわずかに疲れて見えた。

「まだ起きていたのか」

「お礼を言いたくて。お部屋のこと……花も、お茶も、本も。どうして私の好きなものを知っていたんですか?」

 陸は、表情一つ変えずに答えた。

「結婚する相手の身辺調査くらいする」

「……調査、ですか」

「何か問題があるか」

「いえ」

 問題はない。最初からビジネスだと言われているのだ。それなのに、胸の奥に冷たい水が流れ込むような気がした。

 陸の視線が、ふと葵の手元に落ちた。

「夕食は」

「え?」

「食べたのかと聞いている」

 言われて初めて気づいた。湊と話したあと、荷造りに追われて、自分は何も口にしていない。

 葵が答えるより先に、陸はスマートフォンを取り出していた。

「三浦さん。妻の部屋に食事を。温かいものを頼む」

「あの、大丈夫です。もう遅いですし」

「顔色が悪い」

 陸は通話を切ると、一歩だけ葵に近づいた。

 大きな手が、葵の額に触れる。ひやりとした指先だった。

「熱はないな」

 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。

 けれど陸はすぐに手を離し、いつもの冷たい声で言った。

「勘違いするな。倒れられたら、契約に差し障る」

「……わかっています」

「明日の夜は空けておけ」

「明日、ですか?」

「祖父に会わせる。神条家の当主だ」

 陸は自室の扉に手をかけ、振り返らずに続けた。

「あの人の前では、俺の妻らしく振る舞え。一つでも疑われたら、この契約は終わりだと思え」

 扉が閉まる。

 廊下に一人残された葵は、額に残った指先の冷たさを、しばらく忘れられなかった。

*

 陸の部屋の明かりは、深夜を過ぎても消えなかった。

 神条陸は、机の引き出しから小さな桐の箱を取り出した。

 蓋を開けると、色褪せた水色のリボンが一本、静かに収まっている。

 何度も触れたせいで、端はほつれていた。

「……十八年、か」

 呟いた声は、誰にも届かない。

 向かいの部屋で眠る妻は、何も知らない。

 知らなくていい。少なくとも、今はまだ。

 陸は箱の蓋を閉じ、いつまでもその上に手を置いていた。

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